2020/02/28

ブラジルと人種

サンパウロはトルデシリャス条約線より東側 (ポルトガル側) にあるのに、一時はスペイン人の方が多く住んでいたらしい。

トルデシリャス条約線よりはるか西に張り出したブラジルの領土獲得は、多くサンパウロを根拠地とする金や宝石探しの探検隊によっていた。彼らは"bandeirantes" (旗をもつ人たち) と呼ばれ、途中で疾病や負傷でついて行かれなくなった人たちをまとめてあちこちに残していき、それが村や町の元になった。サンパウロ市はそのためバンデイランテスの町と呼ばれる。

1980年代より十年二十年前にはサンパウロにはほとんど黒人は住んでいなかったと聞いた。'80年代に市内に住む黒人系の人々は北方から移住してきた一世かせいぜい二世で、したがって良い教育を受ける機会がなく重要な地位を占める人は例外的で、いてもたいてい北部出身者だった。サンパウロ州立大学 (USP) の学務部長 (?) だった Cairbar 氏も北東部出身だった。

黒人系の、あるいは顔だちは白人でも肌色の(浅)黒い女性はモレーナ (morena) と呼ばれるが、ショッピングモール El Dorado のスーパーでレジを打っている十数人の女性たちの肌色は極めて似通った淡褐色だった。経営者かマネジャーの趣味でそういう肌色の女性だけを採用しているのかと思うほどだった。そんなはずはないが、なぜそうなるのか見当がつかない。

市内や近郊各地にファヴェーラ (favela) と呼ばれる貧民窟があり、サンパウロ大学の敷地内にもあった。ある休日に市内からバスで戻り、丘を越えて寮に帰るとき黒人の子供と道連れになり、彼もファヴェーラの子だと思っていたが、道々話をすると彼は両親と共に寮に住んでいてそこに帰るという。意外に思い、さらに聞いたら彼らは旧ポルトガル植民地である西アフリカのギニアビサウの出身で、父親が大学の講師をしていた。

ブラジルには人種差別はないと言われていたが、渡伯した当初、これは嘘だと思った。日系人らしい風貌の者は三世・四世だろうがハーフだろうが、しょっちゅう街頭などで見知らぬ者から「ジャポン」(japão、俗に日本人の意、正しくは japonês / japonesa) と呼ばれるから。人通りの少ない道を歩いていて後ろから来た若者にそう呼ばれたり、駅のホームで近くの老人からジャポンと繰り返し言われたこともある。何か用かとそっちを向くとそっぽを向く。格別用もなくただ言ってみたかっただけらしい。

日系人に聞くとそれは第二次大戦後、ブラジル政府による情報の遮断から日系人が「勝ち組」「負け組」に分かれ、前者が後者に対するテロリズムに走って醜態を演じ、それまでの良い評判を損ない軽蔑を買った名残りで、若いものはただ年寄りの真似をしているだけだという。ある所で店員の、日本人からみて明らかに中国系とわかる老婆と客の普通の老ブラジル人が言い合いをして、あげくに客が捨て台詞に「ジャポン!」と言って去るところも見た。

また蔑称として "macaco preto"(黒い猿) というのもあった。直接ではなかったが、私も一度言われた。これは一説によると古い日系移民一世が自分らを称して古強者という意味で"macaco velho" (字義通りには年取った猿) と呼んだのが元だという。初期の日本人移民は新しい移民をジャポンノーヴォ (新米日本人) と呼ぶ。ある日本人入植地の真っ黒に日焼けした日本人神父は「ここに来て十年になるが、いまだにジャポンノーヴォと言われる。言われなくなった頃にはマカーコヴェーリョと言われるようになるだろう」と言っていた。まあブラジルに人種差別がないのは本当かも知れないが、こういうことも込みだと理解して欲しい。

印欧語系住民としてはポルトガル系の姓をもつ者が一番多いがイタリア系も多い。だからイタリア料理などは本場のものに近い。ゴーン氏のように中東系もいる。宗旨はわからないけれど、"Ya Sin" のようなアラビア語の屋号を持つ店も見かけた。初めてブラジルに来た時全く見かけなかったが、半年以上過ぎてからジプシーと思しい風俗の人々を広場で時々見かけるようになった。手相を見たりしていた。私より半年前からいる日本人の友人にそのことを話すと信じなかった。しかし帰国して二年後に戻ってくると広場という広場にジプシー風俗の人々が沢山いた。どこからどうやって移ってきたのだろう。

もちろん辺境の方には先住民やその混血の人々が多い。

2020/02/06

むかし普通に売っていたが今は見つからない登山用品

ウールのバンダナはひと頃市場にあってよく使われていたから、ガイドブックのたぐいにも装備の一つとして載せられていたりした。私も一枚買って冬の登山に使うだけでなく、普段でもマウンテンパーカのポケットに入れておいて寒い時は細く八つ折りくらいにしてシャツの襟の下に巻き、温かい空気が襟首から逃げるのを防ぐのに使い、マフラーは使わなかった。十数年後にどこか飲食店に置き忘れたらしく、なくした。それからネットで探したがもう作っていないらしい。バンダナで検索するとオーソドックスな (でも米国で風呂敷のように使われていた一辺が27インチくらいのバンダナより小さい) 木綿のペイズリー柄のものの他は、実用性のないオシャレアイテムしかみつからない。

あと、ダブルで厚手なニットの目庇 (まびさし) 付き目出し帽または目出帽。昔は少し高い冬山や外国の高山ではたいていみんなこれを使っていた。目の下の部分を引き下げ、口がすっかり出るくらいに伸ばして。私は内側がアクリルか何かで外側がウールの"How dry I am"とかいう外国製のを使っていたが、真冬の朝散歩に使おうと数年前に出してみるとウール部分が散々虫に食われてしまっていた。これも目出帽とかバラクラヴァなどと検索しても、特殊部隊かテロリストが覆面として使うようなシングルのやつしかない。今は山では何を使っているのだろう。高所帽?ウシャンカ??

また、まだあるにはあるけどニッカーホースは今は一社しか作っていないね。種類も少ししかない。オールドスタイルなスポーツ自転車乗りは好んでニッカーをはくが、靴下は登山者向けのニッカーホースを使うらしい。そのせいで作り続けることができるのかも。しかしニッカーの方は登山用を流用できない。自転車用は前傾姿勢のため腰の後ろがたっぶりしていないといけないから。